| ●饅頭喰い |
●千利休 |
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子供に、「お父さんとお母さんのどっちが好き」と聞いたところ、その子供が持っていたおまんじゅうを二つに分って、「このおまんじゅう、どっ右がおいしいと思う?」と尋ね返したという逸話から創作された“饅頭喰い”。数ある伏見人形のなかでも代表的なものである。子供が賢く育つようにと買い求めていく人も多い。着物の模様に書かれた百人一首にも独特の趣がある。 |
安土桃山時代を代表する茶人、本姓は田中、千は通称である。信長、秀吉に茶頭として仕え、それまでの四畳半にかわる二畳、一畳半といった小間の茶室と、それにふさわしい茶法を創案、茶の湯の大成者とされている。身辺にある雑器を道具に取り上げるなど、茶の湯のもつ日常性を追求する一方、小間の茶室にみるような茶の湯の非日常的な求道性を追求し、茶の湯の限界をきわめたといわれている。記録によれば、伏見城築城の前年、秀吉とともに指月の岡に遊び茶会を開いたという。 |
| ●牛若丸 |
●森の石松 |
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源義経の幼名。謎につつまれたその生涯から、いくつかの牛若丸伝説も生まれた。牛若丸は幼くして鞍馬山に送られ、仏門に入らされたという。しかし仏道の修行はせずに、父の仇を報いると称して武道に励んだと伝えられる。唱歌にうたわれる五条大橋での弁慶との出会いの場面は、日本人なら知らぬ人は皆無であるほど有名である。また、乳飲み子の頃、母常盤御前に抱かれて雪の伏見街道を奈良へと逃げるくだりがあるが、これは史実ではないにしても、伏見が当時の交通の要地であったことの証明にはなろう。 |
江戸末期の博徒。東海道で有名な清水次郎長の子分であったことは人の知るところである。巷談で有名な三十石船での、「鮨喰いねエ!」で、当地でも親しみをもたれているキャラクターであるといえよう。なお、三十石船の話は、弥次善多道中のなかにも登場する。大げさに言えば、当時の日本人は誰もが一度はこれに乗っているとも言え、伏見が日本で最大の河港都市であったことを裏づけている。 |
| ●豊臣秀吉 |
●伏見城 |
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尾張の百姓の子として生まれ、信長に小者として仕えた。草履を懐中で温めたエピソードに象徴されるように、その忠勤ぶりは抜群のものがあったという。後に関白太政大臣に出世し、文禄二年には太閤となって伏見に隠居した.しかし五年後の慶長三年の春、醍醐の花見の宴を境いに急に衰弱し、夏には伏見城において63才の生涯を閉じた。「つゆとをち つゆときへにしわがみかな 難波の事も ゆめの又ゆめ」が辞世の和歌であった。 |
文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見指月に晩年の居城として贅を尽くして創築。豪壮華麗で「わび・さび」の茶室から調度にいたるまで、桃山文化の粋を極めた建築であったと伝えられる。秀吉の死後、家康に引き継がれたが、元和9年(1623)に廃城。主な建築は寺社などの遺構として保存された。現在の城は昭和39年の再建で、伏見城の天守閣を縮小して建てられた観光城である。 |
| ●千姫 |
●花傘行列 |
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徳川二代将軍秀忠の長女、家康の孫女にあたる。慶長3年(1598)病床にあった秀吉は、嗣子秀頼と婚約を結び、5年後7才の千姫は11才の秀頼に嫁した.家康が豊臣氏を攻めた大阪冬・夏の陣では、千姫は大坂城にこもっていたが、落城の前夜に脱出。この時千姫救出に功のあった者に姫を与えるとの家康の言葉が、後の悲劇を生んだことは著名である。なお、千姫が伏見の徳川邸で生まれたことから、氏神の御幸宮に神輿を寄進しており、それはいまも華やかに輝いて千姫を偲ばせている。 |
洛南随一の大祭「伏見祭」。この伏見祭の名物が花傘行列。昔は町内のけがれをこの花傘に集めて厄除けし、村ごとに風流花傘を競演。室町時代には最大の呼びものであったそうである。この花傘の伝統をいまに伝えるのか、大手筋商店街の「花傘パレード」。昭和52年のカラー舗装完成のこけら落としとして始められ、以来大人気を呼んでいる。10月9日の夜、たくさんの花傘が乱舞するシーンは、まさに壮観である。 |
| ●坂本竜馬 |
●新撰組 |
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幕末の志士として名高い。土佐国に生まれ、近代国家日本のあけぼのに広く貢献した。後に勝海舟に師事し航海術を修業、薩長同盟を成立させ、倒幕運動の中心となって活躍した。京都伏見ともゆかりが深く、伏見寺田屋で幕史の襲撃を受けた際、寺田屋の養女お龍の機転で難を免れ、それが縁でお龍と結婚した。また寺田屋の女将お登勢との親交も広く知られるところである。 |
幕末期、江戸幕府が組織した浪士の武力団体で京の治安維持に努めた。近藤勇、土方歳三らを中心として、尊攘討幕派の弾圧に活躍。元治1年(1864)6月5日の池田屋事件は特に有名である。このころの隊士は50人ぐらいであり、翌年の最盛期には総勢200人ほどであったという。以後幾多の戦いに活躍したが、1868年1月3日の鳥羽伏見の戦いで幕軍と共に敗れ、以後歴史の流れのなかに埋没していく。 |
| ●酒づくり |
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秀吉が築城祝いに訪れた客に振るまったことから有名になった伏見の酒。明治44年、第一回全国新酒鑑賞会では伏見酒が第一位に選ばれ、以後名酒として全国的に知られるところとなる。その発展を支えたのは伏見ならではの良質の水と近畿一円に産する上質米、寒冷な気候と、そして、洒づくりにかけた多くの人々の情熱とたゆまぬ研究・努力であるといえる。いま改めて、「伏水」といわれたこの土地を、再認識してみたい。 |